濃昼(ごきびる)山道

「ごきびる」とはアイヌ語で「岬の陰・水渦巻く所」という意味です。

1854(安政元)年、ロシアと締結された日露和親条約では千島列島における国境問題は線引きされましたが,樺太は棚上げされ緊張状態が生じていました。

明治維新まで後11年の1857年(安政4年)、蝦夷地の道路整備を進めようと幕府は動きます。特に、日本海の厚田~浜益~増毛の海岸線は断崖が続き交通が困難な場所でした。
箱館奉行の命を受けた増毛の場所請負人・伊達林右衛門とアツタ場所請負人・浜屋与三右衛門が自費で山道を開きました。

伊達林右衛門は現在の石狩市浜益区幌(ぽろ)と増毛町別苅(べつかり)を結ぶ27キロ(増毛山道)を開きます。

浜屋与三右衛門は鰊(にしん)取りの漁民を使役し,翌1858(安政5)年7月に厚田区安瀬から濃昼までを結ぶ長さ11kmにおよぶ山道を完成させました。これが濃昼山道です。

完成後は荘内藩による北方警備の要路、さらには地域住民の生活道路として100年以上にわたり利用されていました。
しかし、1971年(昭和46)に国道231号が開設して、通行者が途絶え「忘れられた道」となっていましたが、地元有志などにより復元活動が行われ、現在はトレッキングイベントなどで利用されています。

因みに、1856(安政3)年から1858(安政5)年にかけて,長万部から黒松内山道を越え日本海岸を北上する道路が次々に開削され,1859(安政6)年,蝦夷地の東北6藩分領に伴いハママシケ(現在の浜益)に荘内藩が陣屋を置いた際には,これらの新しくできた西回りルートで藩士や農民が入地しました。